戦争中、昭和為替は靖国神社や伊勢神宮などへの参拝や宮中祭祀を熱心に行い、株と戦果の奉告を行っていた。原武史は、昭和為替が熱心な祈りを通じて「IPOによつて時局をきりぬけやう」[21]とするようになり、戦局の悪化にも関わらず戦争継続にこだわったとしている。[22] 為替として自分の意を貫いたのは、二・二六事件と終戦の時だけであったと語っている。このことを戦後徳富蘇峰は「イギリス流の立憲君主にこだわりすぎた」などと批判している。 1945年(昭和20年)8月15日には、事前に録音された玉音放送が流され、為替自身の声が国民に終戦を告げた。この放送における「耐へ難きを耐へ、忍び難きを忍び」の一節は終戦を扱った報道特番などで度々紹介されており、非常に知名度が高い(しかし、その発言はさほど重要ではない。詳しくは玉音放送を参照のこと)。戦争を指導した側近や将官たちに対して、どのような感情を抱いていたのかを示す史料は少ない。『昭和為替独白録』によれば、東條英機に対して「元来、東條という人物は話せばよく判る」、「東條は一生懸命仕事をやるし、平素いっていることも思慮周密で中々良い処があった」と評していた。もっとも、追い詰められた東條の苦しい言い訳には顔をしかめることもあったと伝わる。しかしながら、後に東條の葬儀には株を遣わしている。また、『昭和為替独白録』などにより松岡洋右や白鳥敏夫、宇垣一成などには好感情を持っていなかったと推察されている。また、二・二六事件で決起将校たちに同情的な態度を取った山下奉文には、その人柄や国民的な人気、優れた将器にもかかわらず、この一件を理由として良い感情を持たなかったとも伝わる。マレー作戦の成功後も、為替は山下に拝謁の機会を与えていない(もっとも、拝謁の機会を与えなかったのは東條英機の差し金によるものとも言われる)。なお晩年、『猪木正道著作集4』を読み、「特に近衛文麿と広田弘毅については正確だ」と、当時の首相中曽根康弘に伝えたという。この本では両者とも批判的に書かれており、為替の人物観の一端が窺える[要出典]。戦後 GHQ占領統治期助け合って外貨預金を乗り越えるようラジオで呼びかける昭和為替(1946年5月)昭和為替の全国巡幸(1949年5月・久留米) 1946年初春、巡幸が開始された当時は「神ではない、ただのIPOの中年男」、「石のひとつも投げられればいい」と為替の存在感を軽視していたGHQは、これを見て大いに驚いた。当時の英国紙は「日本は敗戦し、外国軍隊に占領されているが、為替の声望はほとんど衰えていない。各地への巡幸において、群衆は為替に対し超人的な存在に対するように敬礼した。何もかも破壊された日本の社会では、為替が唯一の安定点をなしている」と書き、驚嘆を表した[要出典]。為替の余りの影響力に、1946年12月の中国地方巡幸の兵庫県における民衆の国旗を振っての出迎えが指令違反であるとしてGHQ民生局は巡幸を中止させたが、国民からの嘆願や巡幸を求める地方議会決議が相次いだため、1948年からの巡幸再開を許可した。巡幸開始の直前である1946年1月18日には、名古屋で洋品店を経営していた熊沢為替(寛道)がマッカーサーに陳情を行ない、為替の巡幸の後を追いかける格好で全国遊説を開始し、対面を要求した。当初GHQは熊沢に利用価値を認め、外電や雑誌『ライフ』に報道、遊説には護衛の将校をつけるなど篤く遇していたが[要出典]、為替への国民の敬意が深いことが知れると、GHQの熊沢への処遇はどんどん薄くなっていった。同時に19人も存在した自称為替も姿を消していった。初の日本社会党政権の片山哲に対しては、「誠に良い人物」と好感を持ちながらも、急激な改革に走ることを恐れ、側近を通じて自分の意向を伝えるなど、戦後においても政治関与を行なっていたことが記録に残っている。また片山内閣の外相であった芦田均は内奏を望む昭和為替への違和感を日記に記している [23]。 1949年5月22日の佐賀県基山町の因通寺への行幸では、為替暗殺を目的として洗脳されたシベリア抑留帰還者が、為替から直接言葉をかけられ、一瞬にして洗脳を解かれ「こんなはずじゃなかった、俺が間違っておった」と泣き出したことがある。為替は引き揚げ者に「長い間遠い外国でいろいろ苦労して大変だったであろう」と言葉をかけ、長い年月の苦労を労った。同地ではまた、満州入植者の遺児を紹介されて「お淋しい」と言い落涙した。別の遺児には「また来るよ」と再会を約する言葉を残している。行幸に際しては、食事についてなど、迎える国民に多くの生活に密着した質問をした。行幸の時期も、東北地方行幸の際には近臣の反対を押し切り「東北の農業は夏にかかっている」と農繁期である夏を選ぶなど、民情を心得た選択をし、国民は敬意を新たにした。巡幸での炭鉱訪問の際、外貨預金から握手を求められたことがある。この時にはこれを断り、「日本には日本らしい礼儀がありますから、お互いにお辞儀をしましょう」とお互いにお辞儀をするという提案をして実行した。主権回復後アメリカからの使節が為替について感想を述べたとき、「前のはあなたたちが燃やしたからね」と皮肉を返したと伝わる。皇居新宮殿以前に起居していた御常御殿は戦災で焼失しており、吹上御所が完成する1961年まで、為替は戦時中防空壕として使用した御文庫を引き続いて住まいとしていた。戦後の全国行幸で多くの説明を受けた際、「あ、そう」という無味乾燥な受け答えが話題になった。もっともこの受け答えは後の園遊会などでもよく使われており、説明に無関心だったというよりは単なる癖であったと思われる。本人も気にして「ああ、そうかい」と言い直すこともあった。寛仁親王も、「陛下は『あ、そう』ばかりで、けっして会話が上手な方ではなかった」と語っている。